チャンピオンカレー
メニュー 店舗検索

金沢カレーの歴史

はじめに…
金沢カレーの基礎知識

「金沢カレー」って、よく耳にするようになりましたが、
いざ「説明してください」と言われると困ってしまうことも多いです。

「実際、どういうものなの?定義もよくわからないし…」という人は少なくないはず。
実は石川県民でも、明確にはっきりと説明できる人って、案外少ない※1んじゃないかと思います。

「金沢カレー」という言葉が使われ始めたのは、早くとも2005年前後~と比較的新しいのです。

そこで……

まず「金沢カレー」について「巷ではどう語られているのか?」という視点から、
「金沢カレー」の定義や基礎知識などをまとめてみます。

そもそも「金沢カレー」って?

「金沢カレー」について、巷ではどのように言われているのでしょう?「厳密な定義はない」と言う人もありますが…Wikipediaでは、こんな説明になっています。

「金沢カレーとは、金沢市を中心とする石川県のカレーライス店で供される独自の特徴を持ったカレーライスを言う。」

Wikipedia

石川県自体がカレーを好む県らしく※2、カレーを提供する店舗が非常に多いのです。そんな石川県で昔から根強く人気があったのが、現在「金沢カレー」と呼ばれているスタイルのカレーでした。

NTTタウンページが2013年に発表した「カレーハウス」の登録ランキングにおいて、石川県は“人口10万人当たり”で登録件数最多とのこと。

それらのお店は、共通してある「独自の特徴」を持っています。

“金沢カレー”スタイルの元となったLカツカレー

「金沢カレー」の特徴

金沢カレーの「独自の特徴」と言われているものが、具体的にどんなものなのか見ていきましょう。

  • ルーは濃厚で「ドロッ!」とした感じ。
  • カレールーの上には「カツ」が載っており、その上にソースがかかっている。
  • ステンレス製の舟型のお皿に盛りつけられている。
  • 先割れスプーンかフォークで食べる。
  • つけあわせにはキャベツの千切り。
  • カレーのルーは全体にかけ、ライスは全く見えないように盛り付けられている。

一般的に言われている特徴としては、このようなものです。お店によっては、全ての条件を満たしているわけではありません。

「金沢カレー」の代表的なお店

金沢市近郊のカレー専門店はいくつか存在し、それらは過去からの系譜で繋がりのある店や、繋がりの無い店が混在している状況です。地元の方でも、このあたりの複雑な事情をご存知の方は少ないと思います。

石川県発で「金沢カレー」を提供している代表的なお店を、私たち自身も含め挙げてみます。

本ページ公開後に、最大手になるゴーゴーカレーさんについて記載がない点、いくつかのお問い合わせを頂きましたが、せっかくなのでローカル情報を中心に記載すべく“石川県発・県内本拠地のお店”で括らせて頂いているため、ゴーゴーカレーさんに関しては記載しておりません。また、店舗やキャッチコピーなどが類似している点で弊社店舗との関係をお問い合わせ頂くこともあるのですが、ゴーゴーカレーさんは2004年に新宿で創業されてから今日まで弊社と特に関係や交流はなく、弊社からご紹介できる内容はあまりないのが本当のところです。
【2018/3/13 追記】

カレーのチャンピオン

1961年に金沢市内で「洋食タナカ」として創業。実は今の本店は金沢市ではなく、お隣の野々市市に存在します。今に至る、金沢カレーのレシピとその特徴あるスタイルを創業者の田中吉和が作ったことから、金沢カレーの「元祖」と呼ばれることも多いです。

“チャンカレ”の略称で、※3地元のお客様を中心にご愛顧いただいています。

自然とこう呼ばれるようになり、今では社内でも定着しました。思い出せる限りで2002年前後にタウン誌で広告をお出しした際には用いられていた呼称。なお、法人名称が「チャンピオンカレー」、店舗名が「カレーのチャンピオン」と、正直紛らわしい。

ターバンカレー

元々は「洋食タナカ」として営業をしていた田中吉和が、常連客だった岡田隆氏と共に共同経営で金沢市に出店していたお店です。後に共同経営をやめ、田中が分離・独立して「カレーのチャンピオン」に至ります。

共同経営の解消後から現在も「ターバンカレー」として金沢市繁華街で営業をされており、近辺のお客様に親しまれています。店舗数で最大手のゴーゴーカレーさんは、こちらのお店から出られているようです。

カレーの市民アルバ

1971年に小松市で創業。首都圏など各地にも店舗が存在します。
創業から関わられ、アルバで工場を切り盛りされていた今度忠氏※4は、一時期「カレーのチャンピオン」でも工場長を務められており、私たちともある意味で関係の深いお店です。

黎明期の「金沢カレー」に直接関わられ、本コンテンツの作成にあたってご協力をいただいた方。石川県の放送局さんが2013年に「金沢カレー」を特集した際、”生き証人”として出演。

キッチンユキ

老舗中の老舗のひとつ、カレー専門店ではなく、どこか昔懐かしい雰囲気を残した洋食店です。カレーだけではなく「ベーキライス」など幅広く金沢洋食※5の提供もあり、根強いファンの多いお店です。

創業者の宮島幸雄氏は『ニューカナザワ』以前からも田中吉和と親交が深かったようで、田中とツーショットで撮られた写真なども遺されています。ニューカナザワではサブチーフとして田中の下で働かれていましたが、同年代であったこともあり、実際には共に腕を磨く良き料理仲間であったことが伺われます。

定義がある訳ではありませんが、「ハントンライス」など金沢に独特の洋食文化を便宜上このように呼ぶケースがあります。県外から洋食文化が流入する過程で、金沢カレー第一世代の料理人は金沢洋食の黎明期にも関係しており、北陸司厨士会の立ち上げには田中や今度氏も尽力した様です。

ゴールドカレー

石川県内発祥の店舗としては、新興店舗の代表例として知られていると思います。活発に新しいメニューを出される印象です。かつて弊社のフランチャイズ(FC)店として営業※6されていましたが、元オーナーさんの諸々の事情から独立されました。

旧・「カレーのチャンピオン 新県庁前店」でした。

「金沢カレー」の源流と歴史

「金沢カレー」にまつわる噂や歴史の話も、巷ではいろいろ語られているようです。

特に近年、地元石川県のテレビ局さんで特集頂いて以降、1955年頃にあった「レストランニューカナザワ」で生まれた…という説が出てきました。

それもそのはず、働いていたメンバーの中に、「金沢カレー」の老舗店の創業者や関係者が5人もいるのです。(敬称略)

田中 吉和:チャンピオンカレー創業
宮島 幸雄:キッチンユキ創業
今度 忠 :カレーの市民アルバ創業
野村 幸男:インデアンカレー創業
高田 義教:香林坊大黒屋食堂 継承

ニューカナザワで撮影された集合写真。右下が田中吉和

「金沢カレーの元祖」は諸説……

「元祖」に関する噂もいろいろ存在しますが、わけても長らく『ターバンカレー』さんをあげる声がありました。

また、カレーの専門店としての業態をはじめに作ったのが『インデアンカレー』の野村幸男氏だったと言う方もあり、それで最古の金沢カレーは『インデアンカレー』さんという説も一部では語られているようです。

一方で、田中吉和が最も早くから金沢カレーのような形のカレーを提供していたことより、私たち『チャンピオンカレー』の名をあげて頂くことも多いです。(ありがたいです!)

この辺りは諸説入り乱れており、分かり難いものになっている感があります。

弊社の知る、 「金沢カレー」ことはじめ

では、色々な噂や憶測に対して、実際にはどのように始まり、普及してきたのでしょうか。

社内に残る資料。昔をうかがい知るための貴重なものです。

「金沢カレー」についての歴史は、これまでまとめられた例自体も少なく、特に従事者視点から語られたことはあまりなかった様に思います。

初期の関係者がご健在の内にまとめておかないと、きっと忘れ去られてしまい、もうきちんとした情報が出ることはないでしょう。

特に新幹線開通以降、歴史や成り立ちに関するお問い合わせも増えたため、私たちは「一度しっかりと資料などをあたって、当時の事も記録として残しておこう」と考えていました。その過程では当時をよく知る人にお話をうかがい、初めて明らかになったこともあります。

このコーナーは、色々な話が飛び交う中、金沢カレーをめぐって旧くから営業させて頂いている「事業者側からの見方のひとつ」として、私たちが知り得る限りのことをまとめておくため用意しました。

日本の洋食文化の片隅で花開いた「金沢カレー」に興味のある方は是非ご一読下さいませ!

次項からは実際の「金沢カレーの成立」について詳しく見ていきましょう。

金沢カレーの成立

石川県には比較的早くからインド料理専門店などもあり、
豊かなカレー文化の根付いた県だったようです。
その中で、現在唯一、都市の名前が冠される「金沢カレー」は、
他の地域ではみられない特徴的なジャンルです。

1950年代

創業者・田中吉和の経歴 ―「ニューカナザワ」以前のこと

金沢カレーのレシピを最初に作ったのは、チャンピオンカレーの創業者・田中吉和です。

北陸中日新聞の昔の記事にあったガンコ堂の記載。

16歳で洋食の道を志した田中※7は、当時金沢市内の日銀裏にあった、『ガンコ堂』という洋食屋の店主・早川氏という方の紹介を受け、東京の『東洋軒』※8へ修行に出ました。

東洋軒には今も残る“ブラックカレー”という看板メニューのカレーがあり、もしかすると田中がカレーに魅せられた遠因になっているのかもしれません。

田中の父・計三郎は山中温泉(石川県)でも腕を振るった和食の板前で、料理の道に進むきっかけになっていると思われる。

1889年に創業、日本洋食の草分けと呼ばれる名門レストラン。その後に旧国鉄系の食堂車営業会社として事業統合、現在は日本レストランエンタプライズ。 ただし、のれん分けされたレストランが「東洋軒」として現存しており、その伝統を今に伝えてらっしゃるようです。

また、『ガンコ堂』は当時石川県内で最も早期にカツカレーの提供を始めた店のひとつとして知られていたようで、田中の人生の節々には早くからカレーの影が見えかくれしているのは面白いところです。

その後、修行を終えた田中は北陸に戻り、石川や富山を中心にレストランやホテルで勤務します。その内のいくつかでは料理長も務めました。

その中には三島由紀夫の小説にも登場する老舗レストラン『狸茶屋』※9があり、当時狸茶屋が運営していた『繊維会館グリル』で、後に『キッチンユキ』を創業する宮島幸雄氏と既に出会い、共に働いていたようです。

石川県の片町スクランブル近くにあった老舗。今でも小立野という地域に、「NEW狸」という流れを汲むお店が営業されており、大変美味しいです。

並んで写真に写る2人。左が宮島氏、右が田中。
1956年

『ニューカナザワ』での邂逅

1956年からは、鉄道弘済会が運営母体である『レストラン ニューカナザワ』に初代チーフコックとして勤務します。
当時の石川県には繊維産業で財を成した名士がたくさんいたそうで、その様な方々に向け作られた瀟洒なレストランがニューカナザワでした。

県内から腕利きのシェフが集められ、その中に田中、宮島氏、後に『アルバ』の運営にかかわり工場長を務めた今度忠氏、野村幸男氏、高田義教氏など…

今の老舗といわれる金沢カレー店の創業者が一堂に会しています。

1961年

『洋食タナカ』と、一番はじめの金沢カレーの誕生

田中はニューカナザワで4年ほど勤務した後、1961年に妻・博子の実家である金沢市・高岡町で『洋食タナカ』を開業※10して独立します。

正確な所在地は、金沢市立中央小学校の前にかかる「四ツ屋橋」を渡ってすぐの角でした。元々は洋食屋ではなく、共同経営で鉄板焼き屋を始める計画だったそうですが、紆余曲折あり洋食店となりました。

当時の『洋食タナカ』の写真。

ニューカナザワでもカレーは提供されていましたが、その際に田中の指示の下に作られていたのは通常の洋風カレーだったようです。今でも田中の遺品として保管されている当時のレシピノートでは、野菜やフルーツなどが用いられていたことが確認できます。

ニューカナザワのメニューと、カレーのレシピ。

『タナカ』はほどなく現在の金沢カレーの源流となったカレーを提供しはじめ、これは爆発的な人気を集めました。あまりの人気ぶりに、『タナカ』は徐々にカレー専門店の様になっていきます。

今度氏に直接うかがったところ、『タナカ』では遅くとも1963年までには、現在の金沢カレーとして親しまれるスタイル(ステン船皿、カレーの上にソースの掛かったカツとキャベツが載せられる形式)が確立されていたようです。

1964年

レシピを分けた最初の店舗、『インデアンカレー』

同じ頃、ニューカナザワ時代に田中の下で働いていた今度氏は、東京~金沢間の旧国鉄食堂車で働かれていました。今度氏と田中は特に仲が良く、ふたりは食堂車が金沢に着くたびに交流を持っていたらしいです。

今度氏はタナカでのカレー人気とその味に驚き、田中から直接そのレシピを受け取りました。※11その後、今度氏はそのレシピに独自のアレンジを加え、ニューカナザワの和食部門で働いていた野村氏から請われるかたちで、店舗設立に尽力します。

当時、料理仲間の方が幾人かレシピを教えてほしいと来られていたそうですが、田中から直接渡されたのは今度氏だけの様です。

そして1964年、タナカ以外の最初のカレー専門店『インデアンカレー』ができました。インデアンさんは今度氏のメニュー統括の下、金沢カレー史でも最も早くから新しいメニューを積極的に取り入れられた店舗※12で、最盛期には富山県にも多く店舗展開をされていました。

今度氏がさきがけてバリエーションを出された際、当時は田中や宮島氏から「そんなん邪道や」と諫められていたそうです。

“野菜玉子カレー”(昔を知る方からは通称・ヤサタマとして今も親しまれています)※13や、 “ハンバーグカレー”など、トッピングの幅を増やされたのはインデアンさんの功績です。そのため、インデアンから独立したお店の多い富山県では、“ヤサタマ”がポピュラーな一方、石川県内の金沢カレー系店舗での提供はまちまちなのです。

なお、当時のインデアンで今度氏の下“ヤサタマ”を最初に考案した方が、その後今度氏の紹介でチャンカレに入社され、今も本店で働かれています。

1965年

『カレーライスのタナカ』として カレー専門店へ

1965年には洋食タナカはこの動きに呼応するように『カレーライスのタナカ』としてほぼカレー専門店となります。

1966年

受け継がれる系譜、『キッチンユキ』と『カレーの市民アルバ』

その後の翌1966年には宮島幸雄氏の『キッチンユキ』が創業され、開業には田中や今度氏などニューカナザワ時代の同僚がサポートに駆け付けました。この宮島氏の独立の際に、キッチンユキにもカレーのレシピが伝えられています。

今度氏は長くインデアンカレーに関わられていましたが、1971年にはご兄弟と『カレーの市民アルバ』を創業、現在では“加賀カレー”という二つ名でも愛される老舗です。

石川県民が敬愛してやまない“ゴジラ”こと元プロ野球の松井秀喜選手が星稜高校時代に召し上がっていた※14のは、アルバさんのカレーらしいです。

星稜高校ほど近くに、旧くから営業されているアルバ鳴和店があり、高校生を中心に付近のお客様の胃袋を掴み続けています。

余談ですが、実は今度氏はアルバさんの立ち上げが落ち着いた後の一時期、弊社の工場長も務められていたことがあり、チャンカレの古参店員にも今度氏から紹介を受けて入られた方がいるなど関係も深く、この記事を作成した2018年時点でご存命の中では最も黎明期の「金沢カレー」をよく知る方でした。

今度氏がチャンカレの工場長だった時代の新聞広告。

本コンテンツの作成にあたっても、2016年に面談の機会を頂いて色々と昔の話をお聞かせ頂きました。※15本ページの内容の多くには、今度氏に伺ったこともあります。

元々、今度氏がチャンカレの工場長を務められていた時期にチャンカレの現社長が小学生で、よく昔の工場で相手をして頂いていました。またチャンカレの現工場長は、入社直後に今度氏に仕事を仕込まれています。飄々とした親戚のおじさんのような距離感です。

この時期に、相次いで老舗と呼ばれる店舗が設立されたことが、「金沢カレー」成立の土台となっています。

コンテンツ作成にあたりご協力頂いた今度氏(左)と、
インデアン時代から今度氏と苦労を共にした弊社従業員さん(右)。

巷の評判とはちょっとだけ違う、「金沢カレー」の実像

今となっては特に行き来などの関係はあまりないのですが、老舗の中でも特に『アルバ』さんと『キッチンユキ』さんには、黎明期からこのジャンルをそれぞれに支えてきたという同志感覚と敬意を(勝手ながら)持っています。

これらの店舗さんは元々腕利きの料理人の方が運営をされているため、独自の研鑽を積まれアレンジを加えて発展させられていますから、勉強させて頂く意味で弊社社員からも人気の高い、石川県が誇るお店たちです。

またいずれの店舗も金沢市繁華街より市外の郊外エリアを本拠地としており※16、「金沢カレー」の名を冠されながらも金沢市内よりむしろ郊外で地元のお客様を中心にご愛顧を頂いていたお店です。

チャンカレの本店は野々市市、キッチンユキさんは白山市、アルバさんの本店は小松市(いずれも石川県)と、実はそれぞれ本拠地は金沢市外。

そのため、最初に「金沢カレー」と呼称され始めた際には、昔からご存知のお客様ほど、あまりピンと来なかったのではないでしょうか。

「金沢市民や石川県民が等しく食べるもの」というより、一部のお客様から熱狂的に支持を頂いていたものといった方が実態に近かったと思います。ただし、現在ではメディア等でもお取り上げ頂いたおかげで広くお客様からご支持を頂けており、ここ数年で一般化して来ました。

『ターバンカレー』から
『カレーのチャンピオン』へ
至る経緯

今でもよく訊かれるのが、一部で“金沢カレーの真の元祖”と語られる『ターバンカレー』に関することです。現在のターバンカレーさんは、今も金沢市庁舎のお近くで営業されています。

私たちも『カレーのタナカ』の後に『ターバンカレー』を経て現在に落ち着いた経緯があるのですが、積極的に語るようなことでもなかったため、色々な噂の錯綜するところでもありました。今回初めて、この辺りについても少し記しておこうと思います。

1971年

『ターバンカレー』のはじまり

『洋食タナカ』を改装した『ターバンカレー』1号店の当時の写真。

カレーのタナカが軌道に乗り、老舗系金沢カレー店が立ち上がって黎明期を迎えてしばらく経ったころ、当時のタナカに足繁く通って頂いたお客様に地元金融機関にお勤めされていた岡田隆さんという方がいらっしゃいました。

岡田氏はタナカのカレーを気に入って頂いていたようで、お誘い頂いて『カレーのタナカ』の名を変え共同経営としたのが、初代のターバンカレー※17です。田中は料理の腕に覚えはありましたが、会社経営にはあまり自信がなかったようで、協業に魅力を感じたようです。

そのため、ターバンカレーの1号店は『旧・洋食タナカ』の高岡町店。ほどなくして片町店を出店するも、実質的に田中吉和が一人で切り盛りする体制だったため2店舗同時営業はできず、高岡町店はその後すぐに仕込み工場へと姿を変え、片町店に軸足を移します。

1971年、現在の香林坊東急スクエアさんの向い辺り、“金沢おでん”で有名な菊一さんの裏手辺りに『ターバンカレー片町店』を新設、同時にカレーのタナカを『ターバンカレー 高岡町店』とした2店舗体制でスタートしました。

それを機に、わずかに残っていたカレー以外のメニューもほとんど廃止、はっきりとカレー専門店の道を歩み始めます。田中はこれまで通り調理や店の切り盛りを担当し、岡田氏が経営を担当していたようです。

1973年

2つに分派した『ターバンカレー』と、野々市への移転

『タナカのターバン』時代の田中吉和。

ですがこの体制は業務負担の不均衡などからあまりうまく行かなかったようで、2年後の1973年に共同経営を解消し、この時に私たちは金沢市お隣の郊外エリア・野々市へ移転します。

当時、ターバンカレーの店名は商標登録されておらず、田中は名前に愛着もあったことから、店名に苗字を足すかたちの『タナカのターバン』として、長らくそのまま使用※18していました。

ただし、かなり表記ムラがあり、弊社から出店していた店舗が単純に『ターバンカレー』と表記していた例も。
また、現在の私たちの本拠である工大前には、裏手通りにもう1軒『ターバンカレー』さんがありましたが、そちらは現・ターバンさんのFC店。(現在は移転して”ジャンカレー”さんとして営業されているようです) このように当時を知る方でも店舗がどちらのターバンだったのかの見分けは困難な状況だったと思われます。

つまり、1973年以降は石川県内に『ターバンカレー』と『タナカのターバン』というほぼ同じ名前と外観、ロゴマークのチェーンが2系統存在しており、これは1996年に私たちが『チャンピオン』と名を変えるまで続きました。

2つの『ターバン』は、棲み分けながらもそこから20年ほど共存しました。分裂後、田中は「名前で違いが分からないのだから、より美味しくしなければ」と、洋食タナカ時代から使っていたカレーのレシピにある大胆な変更を加えています。

これはルーの焙煎時間と火力にかかわる変更で、私たちは便宜上この変更前を“旧レシピ”、それ以降用いているものを“新レシピ”と呼称しています。“新レシピ”の詳細は弊社の他、一時弊社のカレーの製造をご担当頂いていた今度氏のみが知っていました。

この部分の評価は味の好みによるため、今となっては優劣で考えるべきものとは思いませんが、少なくとも変更した私たちのカレーはそれまで以上に大きなご評判を頂きました。

また、1970年代は日本のモータリゼーションが本格化した時期で、外食業界がこぞって郊外商圏に進出を始める最初期※19でもあります。その流れは石川県も例外ではありませんでしたから、この時期に郊外に移転するのは実は理にかなったことでもありました。

「マクドナルド」さんが1971年にオープンしたのを筆頭に、「すかいらーく」さんが1970年に東京・国立の郊外でスタート、「デニーズ」さんが1974年に神奈川県でオープンしています。現在名だたる大チェーン店が相次いで創業されている時期でした。

当時の石川県郊外の主だった外食チェーンといえば『8番らーめん』※20さん以外にないような状況でした。移転後の私たちの店舗にも金沢市内で頂いていた以上に、一層のご来客を頂きました。どうも田中にはその種の先見の明があった様に思われます。

1967年に石川県加賀市の国道8号線沿いにオープン。石川を代表するラーメン店であり、先駆的外食チェーン。年齢・性別を問わず愛される野菜たっぷりのホッとする味は、まさに北陸地方のソウルフード。「あの味」がDNAレベルで刻みこまれている…という石川県民も少なくない

昔の売上記録表。連日1,000名を超えたご来客を頂いていました。

最盛期の『タナカのターバン』野々市町店は、店舗規模が30席で連日1,000名を超えるご来客を頂くまでになり、その間に10店舗ほどのフランチャイズ店舗を増やす機会にも恵まれました。

最盛期には月商で2,000万円を悠に超える売上を作ることができており、確証はありませんが、「郊外立地で単価¥1,000を切る店舗」という条件を付ければ日本国内でも一番に近かったはずです。この時期に『ターバン』という名前は、県内で揺るぎないものとなっていました。

1996年

『ターバンカレー』の商標登録と、名称変更

改称した、移転前の野々市本店。

その後、分裂から20年以上を数えた1996年、同年に現在のターバンカレーさんが「ターバン」の店名を商標登録されたことにあわせて、名称使用しないよう通告を頂きました。

弊社が悪いのですが、当時私たちはその種の手続きに非常に疎かったため、その時点まで商標の所有権についてほとんど意識していませんでした。また分裂以降は特に連絡もない中で突然のことだったため、慌てながらも『カレーのチャンピオン』と名称を変更することとなります。

私たちも長らく『ターバン』の名を冠し営業を続け愛着もありましたから、これは決して小さくない変化でした。

『チャンピオン』という名前には「カレー業界のチャンピオンになりたい」という思いが込められている……と説明させて頂くことが多く、それも間違いではないのですが、実はほぼ思い付きです。通告を受けてからほぼ3日間で決まりました。

単純に語感・響きが小気味よかったことと、田中にはゲンを担ぐ癖があり、(『ターバン』と名付けた際も同様だったようですが)「“ン”が付くのは“運”が付くことに通じる」という旧いゲン担ぎから、「“ン”が2つ付くから、より良いだろう」と決めています。

また、この際に赤と黄色を全面的に打ち出す主張の強い店舗カラーへと変化していますが、これは田中の妻・博子が傾倒していた風水を参考に決めたようです。

ちなみに、金沢カレー系最大手チェーンとして知られるゴーゴーカレーさんがほぼ同じようなカラーパターンを採用されているため、県外のお客様では「金沢カレー店といえば赤と黄色」と思われる向きもあるかもしれませんが、石川県発祥の店舗であのカラーリングで営業しているのは私たちだけで、実は一般的とは言えません。※21

他の老舗店さんは、比較的「古き良き洋食店」といった趣きが多い印象。この辺りも、県内と県外のお客様で「金沢カレー」に対する印象の差になっているかもしれません。

……以上は私たちの側から見たストーリーで、違う角度から見た時にはまた違う捉え方があると思います。また、これらをもって店舗間の優劣を論じるつもりはありません。

主要店の関係・レシピの流れ

ご参考までに、「金沢カレー」として広く知られる代表店舗を、大元となるカレーレシピの変化を中心に示しておきます。私たちから見たかたちで配置しているため、チャンカレを主軸としていますが特に主従などはありませんし、各店舗がそれぞれにアレンジを加えているため、内容が全く同じことを示すものでもない点はご注意ください。

系譜の図

金沢カレーのスタイルと
製法について

金沢カレーについてはWikipedia等にも掲載されており、一般的には

  • 黒に近い深い色のカレーで、ドロっとしたテクスチャーである
  • ステンレス製の舟形皿に盛りつけられる
  • フォーク(もしくは先割れスプーン)で食べる
  • 一般的なカツカレーと違って、カレーの上にカツがのせられ、ソースが掛かる
  • 千切りキャベツが添えられている

というのが特徴とされている様ですが、弊社がタナカ時代にこのスタイルに行き着いたのにはそれぞれに理由があります。

慌ただしい営業に採用された、丈夫なステンレス皿

『金沢カレー』といえば船皿が有名だが、平皿・丸皿なども実はある。

ステンレス製船皿については最も単純な理由で、割れにくく丈夫であることが大きな理由でした。金沢カレー業態は一般的な飲食店に比べても提供速度が早く※22、慌ただしいのです。

チャンカレの本店では、大体ピークタイムにおける提供は3~5分、お客様が御注文から帰られるまでは平均で15~20分前後。

陶器皿では落としたりぶつけたりして欠けてしまうことがあるため、丈夫で長持ちする食器であることが必須の条件でした。

フォークでの提供は、昔の固かった豚肉を刺すため

典型的な「金沢カレー」のスタイル。
メニューによっては先割れスプーンも用いられます。

フォークでのご提供が多いのは、昔使用していた豚肉が欧州産の肉質の固いもの※23であったことが影響しています。お召し上がりの際には先割れスプーンなどよりカツに刺しやすく食べやすいからです。

肉質が固いこと=質の低さでは必ずしもないのですが、欧州は豚肉を加工して食べることが多いため、あまり肉質を柔らかくしないようです。

また、カレーの粘度も高く、フォークでご提供してもそれほど食べ難さを感じなかったため、フォークに落ち着きました。ただ、全てフォークでお出ししているわけではなく、弊社店舗でもメニューによっては先割れスプーンなどでご提供します。

現在は用いている豚肉も質の良い柔らかいもの※24を用いているため、必ずしもフォークで食べる必要はないのですが、このスタイルで定着したためそのまま採用し続けています。

尚、現在Lカツの豚肉は主に高品質な生産体制に定評のある、米国・シーボード社の日本国内向け高品質ロースを仕入れています。担当者が仕入元まで伺って加工法なども確認、ご提供に自信を持てる体制を敷いています。

シーボードフーズ社工場の品質管理作業。
同社はラインから良質の肉のみを選別することに特徴があります。

キャベツ・ソースなどは、“豚カツ定食をそのまま載せた”ことから

「洋食タナカ」時代のメニュー表。
“とんかつカレーライス”が現在の“Lカツカレー”になります。

また、カレーの上にカツをのせ、ソースを掛けてキャベツを添える…という点は、元々洋食店であった際に提供していた“豚カツ定食”と“カレー”を合わせて現在の“Lカツカレー”に行き着いているため、豚カツ定食で提供していた一式をそのままカレーの上にのせるスタイルとしています。

このスタイルに行き着くには前身が洋食店でないと成立しないため、最も分かりやすくオリジナル金沢カレーとしての証明になるストーリーかもしれません。

『金沢カレー』の味の秘密、
レシピと製法

今までレシピや製法について言及することはありませんでしたが、この部分も「結局どうしたら金沢カレーなのか」という点でお問い合わせ頂く機会も増えたため、私たちのカレーの製法を簡単にご説明いたします。

なお、私たちの方で「金沢カレー」を定義するつもりはありません。ただ、もしジャンルを製法の観点から捉えるのであれば、田中のレシピを共有している店舗を「金沢カレー」と呼ぶのが妥当かとは思います。

製造方法自体に目立った特徴はない

まず、製造ステップとしては“ルー”(ルゥ)を焙煎し※25、その後に具材や各種調味料を加えて加熱し、“カレーソース”に仕上げます。

ライスに掛けるものを“ルー”と呼ぶことも多いですが、正確にはその前の段階で用いる、小麦粉やスパイスなどを焙煎したものが“ルー”です。

大まかには上記の4工程ほど※26とシンプルで、実は金沢カレーの作り方には、工程上に目立った特徴はありません。

工場内で実際に用いている正式な作業工程はもう少し精緻に分類しますが、カレーの作り方がシンプルである点は変わりません。

よく「熟成工程を経ているのでは」と言われますが、私たちが検証した限りで、“熟成”とされた工程は特に大きく物性を変化させたり、好ましい風味変化を起こしたりはしませんでした。

独特の風味を実現しているものは、

  • ルー焙煎時のスパイス配合、および加熱の時間と火加減
  • 具材と合わせ最終加工する際に添加する「旨味」を担う成分

の2点です。

“旧レシピ”と“新レシピ”によるルーの違い

低温・長時間で香辛料の風味を逃がさず製造されるルー。

ルーの配合と加熱手法について、前段でも“旧レシピ”と“新レシピ”として少し触れましたが、大きくはルーの焙煎における「温度」と「時間」の違いです。

チャンカレは“新レシピ”を用いてより低温で時間を掛けて焙煎しています。

“旧レシピ”では高温で一気に焙煎を行っていたため、深いホロ苦さがアクセントとなる一方、“新レシピ”にあるスパイス感がなくなります。

このレシピの違いが、他の老舗店舗とチャンカレのもっとも大きな味の違いとなっています。

深い旨味を生み出す秘伝の調味料

金沢カレーでは、田中のレシピを共有しているほぼ全店が使用していると思われる「とある調味料※27」があり、それが金沢カレーの深く強い旨味の特徴となっています。

残念ながら、一般に市販されているものではありません

田中がこの調味料を使用したのは、本来何十時間も牛骨などを煮出す、西洋料理の「フォン※28」の代替品として……です。

ソースのベースとなる出汁。「フォン・ド・ボー」、「フォン・ダニョー」等、色々な種類があります。

それまで、強い旨味を持つカレーを作るためには、長時間のフォン煮出しの作業が必須でした。田中の求める味をその手順で作るとあまりに手間が掛かり過ぎ、町場の洋食屋では安価に提供することができません。……これを解決したのが、金沢カレーに特徴的なその調味料、そしてその使用法だったのです。

このフォンを代替する調味料は、それまでの洋食カレーにはない独特の旨味を「金沢カレー」に与えました。

金沢カレーとは、“食品製造技術で再設計された洋食カレー”

その調味料は、当時最先端の食品製造技術で作られていました。今度氏は、田中が当時の洋食タナカで「コンちゃん、これは偉い博士の発明したもんや。これが今までの調理方法を変えてしまうぞ」と興奮気味に語っていたことを鮮明に記憶していると話されていました。

田中吉和は、頑固一徹な料理人と同時に、時代の変化に敏感な合理主義者の顔も持ち合わせていました。金沢カレーは、作り方はオーソドックスな洋風カレーなのですが、上記の観点から「洋食の伝統的な製法をベースに、食品技術で再設計されたカレー」といえます。

……ところが、当時使用していた調味料は業務用の汎用品であったため、その後メーカーさんの方で内容が大きく変更されました。

この変更があった際、私たちは以前と同じ風味となるよう、特注の調味料を協力メーカーさんと開発し、現在もチャンカレの専用品としています。

そのため、金沢カレー系のメジャー店の中でも恐らく唯一、外部メーカーさんによって味が左右されず、また旨味成分にまで細かな手を入れられる体制を敷いているのが、弊社の大きな特徴です。

ご家庭での再現には…

以上みたように、ルーの製法が特殊で、一般に手に入り辛い材料を用いることから、ご家庭で金沢カレーの風味を再現することは実は非常に困難なのです。

似せて作られる場合には、固形カレールーで通常のカレーを作った後に、お好みの旨味が出るまで市販のフォン・ド・ボー※29などを混ぜ、ウスターソースとトマトケチャップで味を調えると、似た味になる…かもしれません。

大手メーカーさんから、様々な形態で販売されています。

なお、色味はカラメルで付けており、一時弊社からも「カラメルが隠し味」というような情報発信をしていた時期がありますが、これは正確ではありません。※30

カラメルが左右するのはほぼ色味だけで、色が黒ければより味が濃い…というわけではなく、風味への影響はほとんどありません。

過去に弊社から発信されている情報にも不正確なものが散見され、申し訳なく思っております……。

Disclaimer

なお、以上は私たちから見た「金沢カレー」についての説明です。
違う角度から見た場合には、私たちとは異なる見方があると思われますが、その点をご理解いただければと思います。

その他、
よく訊かれることなど

さて、おおまかにはなりましたが、以上が私たちの存じ上げている「金沢カレー」のお話です。

実際のところ、お客様としては美味しければそれ以上のことは何でも構わないと思いますし、また、元々「金沢カレー」は誰か特定の人が言い出したわけではありません※31

より厳密には、石川県の「佃食品株式会社」さんが「金沢カレー」という名前を冠したレトルトカレーを販売されていたのが最初の例かと思います。ただ、この佃さんのカレーは現在言われている「金沢カレー」とは全く別のもので、いつの間にかその商品名がひとり歩きしたのかもしれません。

今後も私たちが「これは金沢カレーで、これは違う」というような線引きをしようとも、その資格があるとも思いません。田中の作り出したカレーが、形を変えながら色々なお客様に親しんで頂けることは、どうあれ私たちにとっても嬉しいものです。

ただ、ある程度広く知られ、地域の名前までジャンルに冠されるようになった上では、どの様に成り立ってきたものかもご存知頂けると嬉しいなと思っております。

その他、私たち「カレーのチャンピオン」についてよく訊かれることの説明や若干の宣伝など、「よくある質問」ページにてご紹介させていただければ幸いです。

よくあるご質問